永禄十二年(一五六九)、小谷城主浅井長政の長女として生まれた。母は織田信長の妹の市。孤児となった十五才のとき、仇ともいえる秀吉のもとに引き取られ、しばらくしてその男児を生むこととなる。しかし、秀吉はわずか六才の嫡子秀頼を残して他界。豊臣家は老獪な徳川家康によって次第に追いつめられていく。そして、慶長二〇年(一六一五)、豊臣家が滅亡した大阪夏の陣では、茶々自らが甲冑を身にまとい、侍女にも武具を帯びさせて、男勝りの活躍を見せたと伝える。戦国女性として生き抜いた四六年の生涯であった。
石山寺(大津市石山寺一丁目)
石山寺の本堂や東大門、また、法輪院、宝性院などの塔頭は、茶々の寄進によって整備、復興された。慶長二年(一五九七)にはじまる大修理のときのことである。現在、私たちが目にする石山寺の姿は、茶々の寄進によって成立したと言っても過言ではない。